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ヒトゲノムが解読されたという事実は、あたかも私たちの人生観や運命が、A、T、G、Cという四種類のデジタルな文字列によって決められ、それはいつでも第三者に対してあけっぴろげで、プライバシーもへったくれもない状況を作り出すかのような印象を、一般的には与えているようだ。
しかしながら、じつはほんとうのところ、それは全く逆だと思われる。
たとえば、生命倫理学者Yo氏(一九四六〜)は、最近の著書『Bio』の中で、「ゲノム解読後の現在、『DNAは生命の設計図』という比喩は説DNA宣言逆に迫真性を失い、人生の預言書というイメージから遠のいた」と述べている。
生命の設計図とされていた部分よりもはるかに大きい、ヒトゲノムの大部分を占める未知の領域が、たとえ理化学研究所のFグループがゲノムの七〇パーセント以上に生物学的意味があることを解明したにせよ、人生にとって何らかの意味を持つ可能性は、ゲノムが解読された後では逆に少なくなったのである。
Yo氏はそれを「確率論的な未来」とみなし、「ヒトゲノム解読の完了は、われわれを預言の前におののく人生の諦観者に導くのではなく、未来は未確定なのだという常識と解放感を奪還してくれるものなのだ」と結ぶ。
DNAをRNAのバックアップコピーであると考えると、バックアップコピーは時々、更新されていく。
その更新は、RNAからDNAが合成される「逆転写」によってなされる場合もあるだろうし、複製のたびに起こるとされる「ミスコピー」による場合もあるだろう。
未来が未確定であるということについて、私はDNAという物質の変化の仕方や、更新の事実というものも、その原因の一つとして考えなければならないと思う。
たとえば、DNA複製は、そのほとんどは正確になされるけれども、ほんのわずかずつ、不正確になされたものがそのまま残っていく場合もある。
私はかつて、DNA複製反応の性質を比喩的に「正確さといい加減さが共存する不思議ワールド」という言葉で表現したことがある。
DNA複製を司るDNAポリメラーゼは、十万回から百万回に一回程度の割合で、コピーミスを犯すのを常とする。
その大部分は修復メカニズムによって直されるけれども、常にDNA複製を行い、常に分裂を繰り返す私たちの体全体では、まさに日々刻々、少しずつコピーミスの固定化による突然変異が蓄積していっていると考えられる。
さらに、DNAの末端に位置するテロメア領域のDNAにしても、それはたった一回複製するだけで変化する。
すなわち複製されるたびに、一定塩基ずつ端から短くなっていくのだ。
RNAウイルスが私たちの細胞に感染すると、彼らが持っている「逆転写酵素」がRNAを鋳型としてDNAを合成し、これを細胞のゲノムの中へ無理やり押し込める。
そしてその「遺伝子」は、私たちの細胞のシステムをちゃっかり利用して、ウイルス自らを複製する。
私たちのゲノムのかなりの部分を占める領域は、こうした経緯によって外部からもたらされたものであると推定されている。
また最近では、前章でもご紹介したように、現存の生物でも、遺伝情報はDNAだけではなく、RNAにも乗っかったまま遺伝していくことを示唆するデータも報告されている。
こうした事実の蓄積と、萌芽的な実験データの蓄積は、DNAの脱神格化に成功しつつあるといっても過言ではない。
前出のYo氏は、『Bio』の中で、「最近まで、ヒトゲノムは特別のものと信じられ、これを解読することは、不可侵である、人間の核心領域への侵犯、と直感する人は世界的にも少なくなかった」とし、「だが実際に解読計画が動き出すと、ヒトゲノムの脱神話化か急速に進み、そのオーラは消失していった。
同じ一九九〇年に着手された遺伝子治療も、DNAの脱神話化に寄与した」と述べた。
Yo氏が言及する「脱神話化」というのは、「人間の核心領域への侵犯」、すなわちヒトを作り給うた神への9涜といった宗教的、倫理的な観念が薄れ、単なる科学技術の一つとして、その手法の一つにまで成り下がったという意味でのものであろう。
DNAが、生命技術の核心であって、生命現象の中心を占める物質であるとの認識そのものは、ヒトゲノムが解読された後でも変化がないのであって、むしろその思いは、却って強くなっていたりする。
だがDNAという物質は、「脱神話化」という言葉を別の意味で使わせていただくと、全くその通りで「絶対的」なものではないのである。
RNA研究の広がりと、しかもどうやら、遺伝子を発現させるかさせないかに大きな影響をもつDNAの「存在状態」を、じつはRNAが決めているようだというような事例も明らかとなっていることを考えると、少なくとも「DNAがまずあって、その指令に基づいて生命活動がなされている」という紋切り型の概念は完全に意味をなさなくなっていることがわかるのである。
ここで、科学技術の中でのDNAと、生命現象の中でのDNAについて把握しておく必要があると思う。
じつは、この両者は現在、完全に一致して理解されているように思われる。
ヒトゲノムとその完全解読に対する人々の思いは、おそらくそうした中にある。
つまり、生命科学の技術の中心にDNAの取り扱い技術があり、その優劣が生命科学研究の成否の鍵を握っている。
だから、DNAは生命現象の中心にある最も大切な物質なのだという考えが、多くの人たちの頭にあるのだ。
これは、間違いであるとまでは言わないが、やはり私は、こうした短絡的な結びつきはよろしくないと考える。
まず、科学技術の一材料としてのDNAと、実際の生体内で立派に「遺伝子のバックアップコピー」としての役割を果たしているDNAは、決して同一視できない。
試験管内に取り出した人工的なDNAは、材料であるデオキシリボヌクレオチドがたくさん重合したものであり、A、T、G、Cという四種類の塩基の並び方にその性質を還元することができる。
たとえば、一ヵ所のAをTに置換してやれば−−すなわち人工的に変異を入れてやれば、その変異による影響は、何らかのデータを通して簡単に目にすることができるし、ある特定の、その役割がすっかりわかっている遺伝子をべつの生物のゲノムに入り込ませてやれば、その生物の性質を変えてやることができる。
よく耳にする「遺伝子組換え」はまさにこの技術である。
ところが、生体内にいるDNAというのは、単なるデオキシリボヌクレオチドの重合体でもなければ、A、T、G、Cという四種類の単なるランダムな塩基配列でもない。
DNAと直接結合しているヒストンたんぱく質から、直接結合してはいないがそこから発現する遺伝子をたんぱく質へと翻訳するリボソームまで、すべて一つながりになった総体の一部として、DNAはそこにいるのである。
先日、ある著名な科学者とお会いした際、その人が「一本のDNAはそれ全体が一つの分子だ。
たった一個の変異であっても、それはその該当する遺伝子がおかしくなるだけではなく、DNA全体に影響を及ぼしている可能性のあることを、科学者はもっと考える必要がある」と仰っていたのが、妙に、しかしながら極めて新鮮に、私の心に残っている。
これは、細胞の中でのDNAの存在状態と密接に関係している、きわめて重要なポイントである。
DNAは、ただDNAだけで、肘掛け椅子に腰掛けてふんぞり返っているだけではない。
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